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キラートーアカマダおとこさん

 投稿者:ミック博士  投稿日:2018年 1月16日(火)19時17分3秒
  確かUNはアメリカ、カナダ、メキシコの3国が認定するタイトルで、一応アメリカのタイトルだったと思います。  
 

>お教えください! !

 投稿者:キラートーアカマダおとこ  投稿日:2018年 1月16日(火)17時57分56秒
編集済
  Jumbo Aoki 様、返事ありがとうございます。私が思うインターヘビーは、ノンタイトルだったのですが反則とはいえテーズに勝ったという事実は本当な訳で、テーズから奪ったというより、俺も王者を名乗る資格があるんだと後から主張したのではないでしょうか?無冠のテーズに各地区でインター王者を名乗らせ防衛戦にしたのはあくまでプロモーターの都合であり、正式なタイトルではないので、テーズも力道山だから実力を認めオッケイしたのではないかと思っております。
真実がわかるまで、いろいろ想像できるのも楽しいですね。

だいぶ前の話になりますが、ドクトル ルチャのぼやき旅だったかと思います。関係者の証言によるとインタータッグもUNヘビーもメイドイン ジャパンだった。 という事を知りショックを受けました。特にUNは日本に返す予定のタイトルなので大事にされなかったのは今にして思えば当然ですね。
 

キラートーアカマダおとこ様

 投稿者:Jumbo Aoki  投稿日:2018年 1月16日(火)10時13分5秒
  ありがとうございます。
力道山時代に、木村と組んでシャープ兄弟のNWA世界タッグに挑戦したり、後年、そのシャープ兄弟を破って、力道山・遠藤組がNWA世界タッグの王座についたこともある・・などといった、これまでの力道山時代の思い出話が、全くひっくり返ってしまったようで、どうにも悲しかった次第です・・。 すみません。
 

>お教えください! !

 投稿者:キラートーアカマダおとこ  投稿日:2018年 1月16日(火)09時45分56秒
編集済
  Jumbo Aoki様、あまり落ち込まないでください。メールにある通りNWA直轄のタイトルマッチということは、正式なタイトルマッチでいいのではないでしょうか?だから他のメンバーに気を使いベルトを持ってこなかった。かもしれませんね。  

お教えください!!

 投稿者:Jumbo Aoki  投稿日:2018年 1月15日(月)14時34分49秒
  ずっと、NWA世界戦だったと信じて来た昭和32年の力道山vsテーズ戦が、実は、NWA世界戦ではなかったことを知り、いささか落ち込んでいる小生ですが、翌33年、力道山がテーズをLAで破ってインター王座を獲得したという話は、そのまま、信じていてよいものですか・・??

「反則負けで王座が動くはずがない・・」・「実は、ノンタイトル戦だった・・」・「テーズは、その後も、インター王者を名乗っていた・・」等々、いろいろな説があるようですが、ミック博士様・流智美様、どうか、本当のところをお教えください!! どうか、お願いします!!!!
 

>NWA世界戦

 投稿者:王者の魂  投稿日:2018年 1月14日(日)12時56分22秒
   なるほど、勉強になります。
が、結果的に昭和40年代前半においては
国内において、インター選手権の価値は上がった
と思います。若獅子の未放映も観てみたい~
 

>NWA世界戦

 投稿者:Jumbo Aoki  投稿日:2018年 1月14日(日)12時17分24秒
  ミック博士様、流智美様、貴重な情報をありがとうございました。
これで、すっきり腑に落ちました。

それにつけても、あの力道山vsテーズ戦が、厳密な意味で、NWA世界戦と呼べるものではなかったのですね・・。長年のプロレスファンとしては、小生、正直、大ショックを受けています・・。
 

>NWA世界戦

 投稿者:ミック博士メール  投稿日:2018年 1月14日(日)10時55分44秒
編集済
  なんと流智美さんからメールをいただきました!
ご本人の許可を得られましたので掲載いたします。

ここ数日の「掲示板」におけるNWA世界戦のやりとりを拝見。
1957の力道山・テーズ戦のときの状況について若干の説明を加えさせていただきます


まずNWA世界戦を開催できるのは「NWAのメンバーシップを持った会員」だけです。
(これは1957、1967、1968も一緒です)

1957の時点で力道山はNWAのメンバーでもなんでもなかった。
なので、力道山は1956年4月にNWA本部のサム・マソニックに直接訪問し、
「開催については、きちんとNWA本部に10%上納します」との一筆を残した。
マソニックは 「自分の代理人」としてハワイのAL KARASIKを会人として
派遣しましたが、あくまで、この日本におけるタイトル戦(後楽園球場 扇町プール)は
「NWA本部の直轄 タイトルマッチ」という スタンスでした。
(もちろん10%はしっかり上納しています。これは3度のインタビュー時マソニック本人に
確認しました。THESZさん本人もそう言っていました)

一方、1967は芳の里はまだNWAのメンバーではなかった(ロスのWWAの会員。
しかも遠藤がWWA会長だから当然といえばそう)
なので1967の8月上旬はNWAタイトルマッチは逆立ちしても開催できなかった。
(中旬のNWA総会で準メンバーとして認められた。
とはいえ 国際プロレスの出現で「NWAには一刻も早く加盟しておかないとまずい」と考え、
8月上旬にマソニック会長を日本に招聘。
マソニックは総会直前の多忙な時期だったが、8・10の田園コロシアム(馬場・キニスキー
初戦)だけ見て帰国。8・14の大阪球場には行っていない。
芳の里も8・14はいかず総会出席のために渡米。
(大阪球場8・14のTV解説が猪木だったのは、そのため )

NWAの定款上、国外のメンバーを認めるには法律上の手続きがあり、1年間正規の会員
としては認められなかった だから1967年8月の総会時点では準メンバーに留められた
わけです。

ちなみにロスのWWAは1968年9月に解散。従って芳の里は1967年8月~1968年
8月は「WWAの正規会員。NWAは準メンバー」という位置にいた。

1968の8月の総会で芳の里は(めでたく)正式にNWAメンバーになりましたから
196812月は(やろうと思えば)馬場・キニスキーをNWA世界戦にできたのですが、
KINISKIは「疲れた。NWAが指名する選手にいつでも王座を明け渡す用意がある」旨
1968年8月の総会で主要メンバー(championship committee)に 告知して認められて
いたため、あえて(直近の)12月に馬場とNWA世界戦をやってグダグダの無効試合などになる
危険性を避け、すっきりと インター挑戦に留めたのです。

この年(1968)の暮時点でNWAのchampionship committee は、次期王者にDORY
FUNK JRを決定していたため、2月にタンパで劇的な王座交代劇が生まれたという経緯でした。
 

マスカラスの国プロ特別参加の物証

 投稿者:ミック博士メール  投稿日:2018年 1月14日(日)08時23分39秒
  Gスピリッツで高杉選手、マイティ井上さんも言及していたミル・マスカラスの
国プロ参加内定の話ですが、なんとポスターがヤフオクに出てきました。
ポスターはパンフレットより早く発注するそうなので、発注時点では特別参加の
話は本物だったのでしょうね。
マスカラス不参加の理由は、ギャラか?スケジュールか?

https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/m235604832

 

CS 2月再放送

 投稿者:王者の魂  投稿日:2018年 1月13日(土)22時04分11秒
   大晦日のCS日本プロレス放送が2月に再放送だそうです。
これを反響の大きさと受け取りたいです(笑)
そしてこの掲示板の皆さまの熱き投稿とか諸々が結集し
馬場・吉村組とか馬場・大木組・・・そしてBIの放映に
繋がっていけたなら・・まさに夢が実を結ぶ・・そんな想いです。
 

そうだったのか~!

 投稿者:しょうまん  投稿日:2018年 1月13日(土)14時37分7秒
  こんにちは♪
Jumbo Aoki様、私の疑問に関しての口火を切って頂きまして、ありがとうございました。

日本プロレス史の背景や、その時のマット事情に基づいての皆様の推論やご意見を拝読しまして、とても勉強になりました。
他のプロスポーツでは、色々な想像等に思いを巡らして語るのは出来ないことだと思い、改めてプロレスを語る醍醐味を感じております☆

当時のプロレス界の最高峰であるNWA世界王者が挑戦するインターナショナル選手権は、ジャイアント馬場と世界の強豪との熱戦で、日本マットの宝になったと言っても過言ではないでしょう。
ミック博士のお話は、ここに繋がって来るのでしょうね。
それにしましても『インターナショナル選手権』というネーミングは、とても響きの良い言葉で、新しい日本プロレス界の幕開けにふさわしい名前に感じました。

それと、当時テレビしかプロレスの知識が無かったので、豊登VSデストロイヤー戦とかのイメージで、私はWWAが世界で一番のプロレス団体とずっと思い込んでいました(^^;)
 

>NWA世界戦

 投稿者:Jumbo Aoki  投稿日:2018年 1月13日(土)07時35分6秒
編集済
  ≫王者の魂様
貴重な情報を、誠に ありがとうございます!!

小生もいろいろ推理してみましたが、皆様のご意見を賜って、現時点での小生の推理の結論は以下の通りです。
まず、当時の日プロ側は、力道山vsテーズ戦の実績を踏まえて、当然、日プロにNWA世界戦を開催する資格があると解釈しており、当初、「インター戦とNWA世界戦のダブルタイトルマッチ」で行こうと考え、マソニックに確認したところ、力道山が亡くなって芳の里が代表になっていたにもかかわらず、きちんと、「代表者変更届」のようなものをNWAに対して出していなかったので、結局、このダブル戦は認められず、事後、慌てて、芳の里と遠藤がNWA本部へ飛んで、ようやく、日プロのNWA会員であることが確認された・・。
(そうなりますと、43年のキニスキー来日時には、なぜNWA世界戦がインター王座とのダブルタイトル戦としてでも、行われなかったのか・・??という疑問が、西神酋長様の言われるとおり、残りますが、意外にも、マソニック・キニスキー間というのは、マソニック・テーズ間のように決して良いものではなく、マソニックは、キニスキーを心底は信用していなかったのではないか・・と思われるわけです・・。
従って、その後、シニアが同道して来日したドリーのときは、猪木・馬場の挑戦を受けさせたのでは・・ないか、と思うのです・・。 もとより、このときには、ハーリー・レイスもついていましたし、マソニックとしては、何も心配がなかったのだろうと思うのです・・。)

もとより、日プロ側が、キニスキー時代には、必ずしもNWA世界とのダブル戦開催には執着せず、インター王座の価値をより高めようと考えていたことは、ミック博士様、王者の魂様の言われる通り、まちがいないとも思います・・。

しょうまん様、ご疑問の点、以上で、いかがなものでしょうか・・???
 

NWA世界戦

 投稿者:王者の魂  投稿日:2018年 1月12日(金)22時35分31秒
   私は、ミック博士の?(2)インター選手権の値打ちを上げるため"
だと思います。力道山の後継者の重み・・今回のCSでの椎名悦三郎氏の
宣言や清水アナの?連続防衛記録”というアナウンスを聞くにつれ、
当時の後押しを感じます。
 でもそこに不自然さを憶えない熱気が・・馬場時代なのだと・・
勝手に合点して納得してます(笑)
 

WWA

 投稿者:Jumbo Aoki  投稿日:2018年 1月12日(金)07時47分35秒
  >ミック博士様

なるほど、超一流のレスラーたちが世界王座についていたWWAの存在がありましたね!!

当時、ストロンボーとかいう、並のレスラーよりでかいプロモーターが、よく日本にも来ており、日本のマット界にもかなりの力を持っていたように見えましたし、NWAは、確か、当時、WWA世界王座を、何としても、NWAの認定するローカルタイトルにしたいと考えていたように見えましたですね・・。
 

NWA世界戦

 投稿者:ミック博士メール  投稿日:2018年 1月12日(金)07時12分58秒
  Aokiさんの投稿を読んで思いついたのは、当時はWWAがまだ全盛で、WWAに気を使った?まぁ、その可能性は薄いでしょうかね。
インター選手権はWWAの調印書をつかっていたようですので、WWA認定という見解もありましたね。
 

>NWA世界戦

 投稿者:Jumbo Aoki  投稿日:2018年 1月12日(金)06時55分34秒
編集済
  なるほど、確かに、力道山がテーズのNWA世界に挑戦した時は、力道山自身が自らプロモートしたのか、あるいは、アル・カラシックがプロモートしたのか不明ですが、いずれにせよ、昭和42年には、力道山は既におらず、同年に急きょ、芳の里・遠藤が渡米して、日プロとしてNWAに加盟した・・しかし、依然として43年にはNWA世界戦は行われず、44年の猪木・馬場のドリーへの挑戦で初めて実現した・・というのが、非常に不可解ですね・・??

ただ、あのおしゃべりの遠藤さんが、確か、猪木vsドリーの激戦のあと、テレビの解説席で、「いつの日か、わが日本プロレスがNWAの王座を取る日が、必ずや来るのだということをですよね、猪木選手がですよね、こうしてですよね、身をもって証明してくれたと言えるんではないかと、私は思いますね・・」というようなことを必死で叫んでいましたから、その意味で、西神酋長様のレスにも、非常に説得力があるような気がします・・。

また、日プロ側が、当初からの「馬場vsキニスキー戦を、インターとNWAのダブルタイトル戦に」という主張に必ずしもこだわらなかったように見えたのは、まさに、ミック博士様のご推論と同じ考えだったような気もいたします・・。

いずれにせよ、当初、小生が思いついたような、「ポリスマン的存在のレスラーの有無」は、いささか、的外れのようですね・・。 申訳ありません。
 

NWA世界戦

 投稿者:ミック博士メール  投稿日:2018年 1月11日(木)21時50分26秒
  力道山がテーズに挑戦していますからNWA加盟云々は大した問題ではないと思います。

考えられる理由は、
(1)NWA選手権開催料を支払うまでもなく客が入ったから。
(2)インター選手権の値打ちを上げるため。

というのが私の推測です。
 

NWA世界戦

 投稿者:西神酋長  投稿日:2018年 1月11日(木)20時50分19秒
編集済
  キニスキーがNWA王者として初来日した昭和42年の夏は
まだ日プロはNWAのメンバーではなかったんですね。
キニスキー帰国の直後、8月15日、芳の里代表と
遠藤取締役が渡米、ラスベガスのNWA総会に出席、
正式にメンバーに承認される。
だからNWA王者キニスキーの第一回目は
世界戦を開催できなかった。
二度目の来日時(43年暮れ)はどうしてかな?
まだNWA加盟団体として日が浅いからかな?
翌44年の夏には、芳の里はNWA副会長になったんで
これはもう挑戦の資格があると認められ
ドリーに馬場、猪木が挑んだんでしょう。
 

キニスキー

 投稿者:Jumbo Aoki  投稿日:2018年 1月11日(木)08時22分25秒
編集済
  >しょうまん様

>何故ジン・キニスキーは日本でNWAの防衛戦をしなかったのでしょうね・・・。

本当に不思議ですね・・。 確か、サム・マソニックも来日しましたが、かつての力道山がテーズのNWA世界の挑戦したときのダニー・プレッチスや、後年、猪木・馬場がドリーのNWA世界に挑戦したときのハーリー・レイスのような、いざという時にポリスマン的な役割を担えるようなレスラーが来ていなかったのかも知れませんね・・???

当時、誰が来日していたか等、どうも鮮明に思い出せないのですが、確か、まだ、猪木が復帰して間もなくのころで、あのゴッチが日本にいた時期だったような気がしますので、キニスキーやマソニックにすれば、危なっかしくて、とても、日本でNWA世界戦をやるなどとは、考えられなかったのかも知れませんね・・???
 

TWWA対NWA(^^;)

 投稿者:しょうまん  投稿日:2018年 1月10日(水)16時13分15秒
  こんにちは~♪

Jumbo Aoki様が書かれておられる「テーズVS草津戦」は、TBSが草津をエースにする為の試合だったのが、ご存じの様に惨敗でしたね。
でも、日本プロレスに在籍していてもメインエべンターになれなかった選手と思いますから、あの結果で良かったかも知れません。

辛口の山本小鉄氏や桜井康雄氏などが「アントニオ猪木の生涯ベストバウトNO,1は、大阪でのD・F・ジュニア戦だ」と語っています。
数多くの試合をして来た猪木選手の試合の中で、昭和の試合が一番に選ばれるのは、何とも言えないものがありますね。

余談ですが、D・F・ジュニアが来日する前に、毎日新聞に「プロレスの世界戦をテレビ放映」と言う記事が載っていました。
当時のプロレスのプロスポーツ界に於いての位置(評価)が分かる記事かと思います。
このNWA世界戦が世間も注目していると感じたのは、早々にプレイガイドにチケットを買いに行きましたのに「二階席の奥しか残っていませんよ」と言われて、驚いた記憶があります。

それにしましても、何故ジン・キニスキーは日本でNWAの防衛戦をしなかったのでしょうね・・・。
 

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